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2017

Yasuhiro Sakima 先間康博

写真家が解体する美術史

2017年12月3日[sun]15:00-

今回は先間康博が写真家の眼を通して美術史を解体していくという企画でした。普段より大学で写真史の教鞭をとったり、岐阜のGALLERY CAPTIONでstudy meetingと称し一般にも公開しています。本来は長い長い日時をかけて講義されますが今回は特別にDEAD ENDバージョンで編成していただきました。 DEAD END恒例となりました企画終了後の言語化、今回はアーティスト井手日出志が担当。講義内容の文字起こしと言うよりは聴講者のひとつの解釈、講義全体を俯瞰した読み物になっています。

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『先間康博 講義 - 写真家が解体する美術史』

今回の講義をDEAD ENDで行うにあたって、先間さんから事前に美術評論誌『neigh』創刊号(1995)から最新号(2017)、大学の講義で使っているレジュメの束、参考文献の本など結構な量の資料が届いた。 まずはその資料の中から『neigh vol.7』の巻頭に先間自身が書いた言葉の抜粋を紹介したいと思う。


ーだからこそ再び、稚拙さをその重しとせず、やり直して見ようと思う。未だ先の定まらぬまま。淡い霧の中の、幼馬のイナナキ(=neigh)の様。けれども、それ故、たとえ軽んじられようとも、たとえ罵声を浴びようとも、再びやってみようと思う。 そして、それこそが、真に自分達の表現の自由を獲得する行為でもあるはずである。自由とは、決して外から守られているものではないのだから。

『neigh vol.7』(2004)


これは暫く中断していた『neigh』を2004年に再開する際に書かれた文章の一部なのだが、そこには当初いろいろな葛藤を抱えながらもとにかく前に進もうとする先間の決然とした意思がある。この三十代後半の先間康博の瑞々しい決意表明に勇気をわけてもらいながら、DEAD END企画「写真家が解体する美術史」について書いてみようと思う。
自由のカケラを求めて。

先間さんと始めてお会いしたのはGallery HAMの神野さんから「今度ウチでやる作家です」と紹介され一緒にご飯を食べに行ったときで、確か2006年頃だったように思う。 その時に写真家であることと同時に美術評論をしていると聞き、当時は『neigh』のことはもちろん先間さんの葛藤や思いを知るよしもなく、オドオド小声で喋るその風貌とは裏腹に凄い自信家なんだなと素直に感心した。 しばらくして発行された評論集『neigh vol.9』(2007年)は特集ゲルハルト・リヒターと杉本博司で2005年に金沢21世紀美術館と森美術館で行われた展覧会をもとに構成されていたのだが、まずなによりも驚いたのはP35〜58に及ぶ[展覧会散歩]と[展覧会雑記]で、メジャーな展覧会だけでなく小さな展覧会にも足繁くまわり、そのひとつひとつを丁寧に言葉に起こし発行する時間と労力、それらからたち現れる美術に対する誠実で真摯な態度に脱帽させられた。 現在DEAD ENDでは企画終了後に言語化して発行することを目標としているが、先間さんと『neigh 』の影響が非常に大きいように思う。
その後何度かお会いしているうちに何が気に入ったのか、いつの間にか先間さんのなかで我が家が関東の展覧会めぐりの際の定宿のひとつに決ったらしく、大抵は前日か当日にメール1本で横須賀まで泊まりに来て酒を飲むという関係が出来上がった。 来たからといって別段その時見てきた展覧会の話をするでもなくただ酒を飲んで遅くまでグダグダして朝早く出て行く。 そんな彼が数年前から名古屋の美術大学で写真史の講義をしているという。 内容もさることながら普段は無口でニヤニヤしているだけの先間さんが学生を前にどんな感じで喋るのか一度見てみたいと思っていた。 2016年にDEAD ENDを始めると当たり前のように毎回名古屋から横須賀まで観に来てくれる。試しに講義のオファーをしてみるとなにやらゴニョゴニョ言いながらも快諾していただいた。 しかも大学での講義全十五回分の中から先間さんが喋りたいサブジェクトをDEAD END用に編集しなおして講義してくれるという。半分怖いもの見たさの願いは意外とあっさり叶うことになった。
前回ダンス公演を行って以降、床を取っ払って根太むき出しのままのDEAD ENDスペースは春先には地面のそこここから笹が芽をだし夏のあいだにグングン立派に育ち、日光の入る縁側をいっせいに向いた小さな草やゼニゴケでうっすらと緑の絨毯がひかれていた。ほったらかしにしておいたら空間が勝手にかっこよくなってくれた。ありがとう。 ダンス公演の時の反省をふまえて足場にコンパネ二枚分を継ぎ足し、引きが取れないためプロジェクターと先間スペースをコックピットのように部屋のど真ん中にセッティングして壁にスクリーン代わりの真っ白なベッドシーツをパンッと張り、寒さ対策にありったけの座布団や色とりどりの毛布を敷きつめるとなんともアットホームな講義会場が出来上がった。 もと押入れの片壁を取り払ってつなげた隣室のベニヤ壁に以前購入した先間さんの赤りんごと青りんごの作品二点をセッティングした。反対側の壁には少し背の高い古い長机を置き、資料として『neigh』の創刊号から最新号までと大学で使っている全十五回分の講義のレジュメの束を並べ、押入れスペースにDEAD END過去二回の企画『SILENT SURF』(※1)、『ザザザ』(※2)の冊子、KEITA project AKANE designのDEAD END缶バッチ(※3)、草刈りやら当日の裏方などいつも何かと手伝ってくれている森君が発行する海洋博物系リトルプレス『キュウセン』(※4)を飾って全て終了当日を迎えた。


※1 DEAD END初回企画 2016.10.01-11.30「井手日出志SIRENT SURF1996-2016」
※2 関さなえダンス公演「ザザザ」2017.03.19
※3 DEAD END記念バッチ発案・提供:福本ケイタ/デザイン:小早川茜
生産:南相馬ファクトリー「つながり∞(むげん)ふくしま」(敬称略)
※4 サンズイ舎 https://www.sanzui-sha.com


「写真家が解体する美術史」は先間康博の写真家としての目を通して語られる古代から現代までの画像を巡る物語で、スライド数309枚、当日配られた資料9枚、途中十分間の休憩をはさんでトータル三時間近くに及ぶ結構なヴォリュームの講義となった。ここでは基本時系列に辿りつつも、何が語られどのように聞きどう感じたかの私見を軸に資料を読み返しつつ振り返っていく。
二十人ほどの聴衆の中まずはゆるゆると先間の自己紹介、普段の大学講義の概要、写真の語源(光の描写、痕跡)、光とは何かにふれ、ビッグバンから始まる宇宙年表、始祖鳥の化石、日焼けの写真、日通上人の等伯を評する手紙、といろいろなスライドを見せながらこれから語られる物語がカメラで撮ってプリントされたものの話でなく、“見る”という行為とそれを定着させたいと願う人間の欲求についての大きな物語であることを示唆する。 次に一昨年去年と相次いで他界された石原悦郎(ツァイト・フォト・サロンオーナー)、福島辰夫(評論家)両氏のスライドとともに先間が最も影響を受けた二人と語る。今回の講義の中で“写真”という言葉をこれほど広い射程で解釈するもはや思想といっていいような眼差しはこの二人から受け継いだものだと言っているように聞こえた。 そしてルーブル美術館に展示されている古代エジプトの雌ネコ、カバ、スカラベの彫刻を映し出し、それらにリアリティーを感じ、そこには写真と共通するものがある、という。先間は1999年にルーブル美術館を一週間かけて丹念に見て回っている。その経験が先間を歴史に目を向けさせるきっかけになったようだ。 そのときの様子は『neigh vol.9』のなかの先間康博著[美術史に見る写真]に詳しく書かれている。


ーそれまでうろ覚えの知識としてしかなかった歴史というものが、現前に表れた作品の数々によって、もっとダイナミックなうねりをもったものとして、理解ではなく体験として得ることができたようにも思う。(中略)光学的かつ化学的な意味で像を写し出すものということに限定すれば、写真は、写真発明以降のものでしかない。けれども、写真もまた、歴史の大きな流れの中の一部分でもあるのだから、その一部分として見ていくことも必要ではないだろうかと考えるようになった。

『neigh vol.9』(2007)


この[美術史に見る写真]は今回の講義の原型としても読むことが出来る。そのなかには今回語られたカラヴァッジオをはじめ多くの画家が写真発明以前に光学機器を駆使して描いている可能性についても述べられている。 このことは講義で紹介されたデイヴィッド・ホックニー著『秘密の知識』(2001年)の中でも非常に詳しく、また興味深く論じられている。 この本の日本語訳の発行が2006年であることを考えれば、この視点を『秘密の知識』からか、個人の経験からか、先に述べた福島、石原両氏はじめ色々な人たちの関わりの中から得たものかは定かではないがいずれにせよ非常にはやい段階で、少なくとも2007年にはすでにその視点を持って絵画を見、なおかつはっきりと言葉に残していることに感心する。

次いで配布資料[ニュー・アート・ヒストリー]に記載されるスヴェトラーナ・アルパース(1936−)、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(1941−)、そしてデイビッド・ホックニー(1937−)を紹介し、彼らが[近代美術史]の図像学的な主題や意味そのものに注目する態度に距離をとり視覚表現そのものに向き合うことを推し進めた事を取り上げる。 作品を言葉によって安易に物語にせずに画像自体に切り込む姿勢は、この講義を通じて一貫した先間の眼差しとしても表れている。 ちなみに今回送られてきた資料書籍の中にユベルマン著、江沢健一郎訳『イメージの前で』があり、それにはもはや目印の意味をなさないほどビッシリと付箋が貼られてあった。興味本位でこの本の感想を先間にたずねたところ「非常に難しく、でも面白かったということしか覚えていない。」とのこと。やはりあの病的な付箋に意味はないらしい。 そしてこの講義で何度も顔を出す、おそらく先間にとって重要である二人の作家−歴史を写真の中に巧みに取り込んで作品にする杉本博司と、社会的なことから目の前の個人的出来事まで広い視点をもつ作品のヴォルフガング・ティルマンスを紹介する。この辺りまでが講義の動機や視点となると思われる。先間の講義は資料を見ていくといくつかのパートに分かれていることが割とはっきりわかるのだが、実際聞いているときは特にメリハリをつけるでもなく次々とスライドが映し出され、抑揚のない語り口で淡々と進められるので、ボケっと聞いているとどこか衒学的で、その流れる感じは不思議なことに幻想的な空気すら醸し出す。いろんな要素を含みながらも全体を大きくひとつの塊と捉える試みの演出と解釈できないこともないが、レポートを提出しなければならない普段の大学の学生さんが少し心配でもある。
そして先間の大きなひとつの塊の話は19.5万年前の最古のホモ・サピエンスが見つかったオモ川流域へとスライドする。ネアンデルタール人とホモ・サピエンス喉頭の位置、現生人類の移動経路、杉本博司のジオラマシリーズ「Neanderthal」(1994)、儀式的埋葬、石器、骨の道具、浅野弥衛の「作品」(1970-77)、楔形文字、田中敦子の「Round on Sand」(1968)、エル・カスティージョ洞窟の赤い斑点と写真の元ともいわれるネガティブハンド、ラスコーはじめ色々な洞窟壁画、そして古代エジプトと時折現代の作家を織り交ぜながら古代史を語っていく。 特に“刻む”という行為に着目し、“絵を描く”と“石に刻む”に共通するその像を捉えようとする姿勢に惹かれるという。先間自身はふれていないが、像を捉える姿勢には当然“シャッターを切る”という写真の行為との共通性も含まれているように思う。 デイビッド・ホックニーが『絵画の歴史』のなかで〈絵画そのものが進歩することはない。プリミティブという概念が間違っているのは、そのせいだ。〉と言っているが、古代と現代を同時に並べて語る先間の視点はホックニーのこの言葉と同調する。
続いて時代順にポンペイのモザイク、エジプトミイラ肖像画、よき羊飼いの図像、イエスス・ハリストスのイコンなど紀元前後から六世紀頃までの画像を紹介しつつ、配布資料[鏡とレンズの歴史]にもあるローマ時代にガラスを使った凸面鏡の製作にふれ、目と意識以外にレンズを通して見ることでリアリティーのある絵ができたのではないか、と推測する。

次にユベルマンを引用しつつ、フラ・アンジェリコ「受胎告知」(1437-46頃)を見せ、この絵を平面的であるが、しかし薄暗い教会内に現れる真っ白い壁の空間でのその平面性は光に包まれたような神聖さを呼び起こすという。 画像の中身だけを問題にするのではなく空間に身をおくことで見えてくるものの大切さを語り、ジェームズ・タレル「ウェッジワークⅢ」(1969)、奈良原一高「沈黙の園」(1958)、ルーチョ・フォンタナの制作風景、ジャクソン・ポロック「Number31」(1950)、ウォルフガング・ティルマンス「Silver131」(2013)などいろいろな現代的身体アプローチを紹介する。 (と、書きながら先間がこのあたりについて何を語ったか全く覚えていない。聞いているときは何の疑問も持たず流れるように引っかかりなく聞いたのだろう。覚えてはいないがタレルの光の空間は分かる。奈良原の修道院も、フォンタナのスラッシュも、ティルマンスのシミも、なんとなく予想できる。しかし改めてスライド資料を順にたどっていくとポロックには若干の違和感を感じる。 はじめに書いたようにこれは私見を軸に先間講義を再構築しているものなので、資料を丁寧に追っていくとメモにも記憶にもない箇所が少なからずあることをお断りしておきたい。)
続いて遠近法についてフィリッポ・リッピ「聖母子と二天使」(1460年代)、マザッチョ「聖三位一体」(1427)、遠近法の解説図(1604-05)、高松次郎「遠近法の椅子とテーブル」(1966)、レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」(1422-24)、アルブレヒト・デューラー「自画像」(1500)をあげながら“消失点”と“二つの目で見る視線”と“一点から見る写真の目”の違いについて解説する。 そして科学が発展し、質のよいレンズやカメラオブスクラをはじめとするその他いろいろな機器が現れることで見方が変わることを、時代を追ってヤン・ファン・エイク「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(1434)、ラファエロ・サンティー「レオ10世の肖像」(1512頃)、ハンス・ホルバイン「大使たち」(1523)、ハン・デル・ハマン「果物とガラス器の静物」(1626)、カラヴァッジオ「病めるバッカス」(1593-94頃)など数々の作品を参照しつつ、画面を分割した図を用いたりしながら、光学機器を使うことで生じたであろうズレ、素描が残されていないことや光や反射、影の描写が非常に写真的であることを例にあげながら検証していく。 我々が無批判に抱く天才画家のあふれる感性によって作られた作品という幻想を先間が丁寧に解きほぐしていく様は淡々とした口調とあいまって小気味いい。
ここで十分間の休憩。陽も落ち、隙間風のせいでかなり冷えてきた身体を温かいお茶で一息ついた後、講義はレオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」(1503-06)から再開される。 「ヘリコプターのスケッチとメモ」(1487or90)、「凸面鏡の設計図」(1990頃)などここではダ・ヴィンチのサイエンティストの目に注目する。 先間は自身が絵は描けないと断りつつ、ホックニーの〈見たことがないことは描けない〉という言葉を紹介し、科学と絵画の関わり、レンズと作品の良し悪しについて考察する。 レンブラント・ファン・レイン「フランス・バニング・コック隊長の市警団」(1642)、「帽子を被り眼を見開いた自画像」(1630)、ヨハネス・フェルメール「絵画芸術」(1666頃)、「牛乳を注ぐ女」(1658-60)、「地理学者」(1669頃)など数々の作品を挙げながら写真の目について語り、画像を定着させる溶剤こそなかったものの、画像そのものは今とかなり近い感じで見ていたと推測し、光学装置と絵画の関係、写真と絵の親和性、ものを見るということの変化について解説していく。 杉本博司「The Music Lesson」(1999)、森村泰昌「フェルメール研究(3人の位置)」(2005)、F・ガイドット「カメラ・オブスキュラ図解画」(1751頃)、ユリアーン・アンドリーセン「カメラオブスキュラを持った芸術家」(1810頃)、「カメラ・ルシーダで描くデイビッド・ホックニー」そして最初の写真ジョセフ・ニセフォール・ニエプス「ル・グラの窓からの眺め、サン・ルゥ・ド・ヴァレンヌ」(1826 or 27)へと至る。 この一枚に到着するまでの長いお話は、写真というものが突然現れたのではなく人類の歴史という長い時間をかけて少しずつ発達してきたことの結果であることと、それが絵画の歴史と密接に繋がっていること、その事が順を追ってひとつひとつの絵画を注意深く見ていくことで解ることを教えてくれる。 そしてニエプスの世界最初の写真を先間は「偶然かもしれないが窓から外の風景を写しているのは象徴的である。」と言っている。この意見は評論家というよりも作家先間康博がよく出ているように思う。 このように先間の講義には評論しつつも、同時に作家の顔が出てくる。この作家の視点があることで聴衆は歴史と個人が地続きのものであり、最終的に歴史が個人に集約されていく様を感じることができる。歴史が知識の集積としてあるのではなく、今という個人の存在を成り立たせる血肉たる知でありえることを知ることは非常に大事なことのように思う。もう一つそのこととは別にアーティスト先間が垣間見えて興味深かったのは、日本を代表する写真家の杉本博司に対する敬意と嫉妬が彼の作品を紹介する言葉の端々に強く現れていて、それはそれで微笑ましく思えた。
そして配布資料ホックニー作[レンズを用いた映像(赤線)と目で見て描く伝統(緑線)]に先間が独自に加筆したグラフ年表を見せ、写真の誕生によって絵画が写実から開放され一気に自由に広がっていくさまを示し、デイビッド・ホックニー『秘密の知識』、『絵画の歴史』執筆後の作品「The Arrival of Spring in Woldgate, East Yorkshire in 2011」に東洋絵画の影響がより見られることを紹介しつつ、舞台をレンズのない世界−東洋に移す。
東洋の話は紀元前12世紀頃の中国の青銅器「ほう祖丁鼎」、「甲骨文字」から始まり、唐朝時代に描かれた風景として「金銀山水八卦背八角鏡」、展子虔「遊春図」、李昭道「明皇幸蜀圖」を紹介する。ここでもう一度先間の評論[美術史に見る写真]から“見る”ということについての文章を抜粋したい。


ーそもそも人間の目は、一所にとどまってはいない。常に方々へと視線を動かして見ているものである。けれども、一つの消失点による遠近法は、一点を見つめた時にしか人間の目では起こらない。要するに、初期条件を削ぎ落として、理論的に考えやすいように合理的に考え出されたものでしかない。 それは、西洋的なものともいえる。しかし、東洋では、そのような合理的な考えに至らなかったようである。 そのため、見るという物事の理論化よりも、見るという事の経験的な再現をめざしたように思われる。 それゆえ、人間の目が、様々に風景の中で目を巡らせるように、風景画において、機械的に一点に収束するようなものでなく、様々に拡がった表現が、発展していったように思われる。

『neigh vol.9』(2007)


と、西洋と東洋の“見る”というリアリティーに対するアプローチの違いを述べている。 全体をひとつの視点で捉えることとは別の、部分に視点が分け入るその“見る”行為に写真と共通するリアリティーがあり、親しみを感じると先間は語る。 その眼差しを元に、北宋時代の笵寛「谿山行旅図」(1000-20頃)、張沢端「清明上河図」(1119-25頃)、その他の掛け軸や絵巻物を見せ、目で追うリアティーについて語り、その“見る”という行為のリアリティーの違いが絵の描き方だけでなく絵画でいうところの支持体の違いとなっても現れていることを示す。 そして南宋時代の馬遠(1190頃-1255)「十二水図」と杉本博司「Sea of Japan Rebun Island」(1996)を対比させる。 この揚子江の波間だけが描かれた「十二水図」の画像を初めて見たのだが、杉本の有名な作品と比較して見ることで、時間軸が逆転していることを承知しつつも非常に興味をひかれた。もし「十二水図」をこの講義以前どこかで見る機会があったとして、そのとき杉本の作品に思いが至らなければ、はたしてこのように興味を抱いたかどうか疑問が残る。このあたりにも画像をめぐる人の関心の秘密の一端があるように思われる。 ここから日本を移し「源氏物語絵巻東屋」(12世紀)、「聖徳太子絵伝」(1069)、「山水屏風」(11 or 12世紀)など平安後期のものから取り上げ論じていく。それ以前の時代に関しては現在実物が存在せず作品の前に立って検証することが出来ない。そこで日本美術の研究書では和歌を引用し時代を遡って大和絵という概念を導き出す。日本独自の心持はともかく言葉しか現存していないにもかかわらず、あたかもオリジナルのルーツがあるような大和絵というものに先間は疑問を投げかける。その上で日本的なものを感じるとして鎌倉時代の「春日宮曼荼羅」、「那智瀧図」を挙げる。「那智瀧図」は単純に理解すると平面的だが実際は“見る”という経験において説得力があり、先間が言うところの“写真的である”というものの見方を前面に押し出す。そして再び杉本博司「華厳の滝」と氏が所蔵する「春日曼荼羅」を見せ、杉本博司の作家としての確かさと如才なさを語り、同じ鎌倉時代の「大威徳明王像」、「平治物語絵巻三条殿夜討巻」、「伴大納言絵詞上巻」の炎の表現に注目して、写真では捉えられない、目で見た感じそのままを描く描写力の豊かさを示す。続けて雪舟の明留学時代初期の「四季山水図(冬)」と、画面の中央がばっくりと割れたような非常に有名な晩年の作品「秋冬山水図(冬)」を比べ、後者を構成され思想性のようなものが先立ち写真的ではないと評価しない。一方、狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「楓図壁貼付」、「松林図屏風」を比べ、等伯の写実性、写真的眼差しを賞賛する。

このように東洋のパートを講義を辿りつつ書いていくと、先間の論点や個々の作品には興味が惹かれるものの、東洋、日本の美術としての一貫した歴史の流れを認識することが難しい。 これは先間の解釈の問題というよりは歴史を通して東洋的視点で見るということはどういうことなのかという問いに対するひとつの結果であるようにみえる。 いま書いている実感としては文法が違うというか、個々の対比の層の連なりが西洋の時のようにドラマチックにグリップせずヴァリエーションとして拡散していく。 この画像に対する歴史観の違いは、先間康博講義「写真家が解体する美術史」の重要なキーであるように思う。
そして西洋の文化が入ってきた桃山時代の「韃靼人朝貢図屏風」、「秦西王侯騎馬図屏風」を紹介し、金の扱い方の変化をキリスト教伝来と関連づけ尾形光琳「紅白梅図屏風」を例にあげ、織部茶碗の模様と西洋文字、モナリザの背景と山水画の類似など、西洋と東洋の交流を色々な画像を見せながら考察する。 また写真のひとつの特徴である、近づいたときにどんどんものが見えてくる面白さと同じ要素、細かさをもつ江戸時代の伊藤若冲「動植綵絵老松白鶏図」、「動植綵絵牡丹小禽図」、「動植綵絵雪中錦鶏図」と同要素を持つヤン・ファン・フーベルト「ヘントの祭壇画:神秘の子羊」(1425-29)、ボッティチェリ「Primavera」(1482頃)、長谷川等伯「松に秋草図屏風」(1592頃)、ヨハネス・フェルメール「絵画芸術」(1666頃)、そして現代の写真家アンドレアス・グルスキー「シカゴ商品取引所」(1999)、「連邦議会、ボン」(1998)を次々対比させながら、繰り返し講義をとおして絵画と写真の親和性を強調する。

その後、江戸後期に光学が入ってきたことを示す魚屋北渓「遠眼鏡江ノ島富士」、伝平賀源内「覗き眼鏡」、遠近法を使った司馬江漢「廣尾親子茶屋」、そして時を経ず伝えられた油絵の「駿州薩陀山富士山望遠図」、高橋由一「山形市街図」、写真油絵の小豆澤亮一「鍋島建子像」などを見せながら様々な西洋的要素がいちどきに入ってきたことを紹介する。 このごた混ぜの感じは歴史的事実としては面白いのだが、その面白さが作品の強度、説得力としては見えてこなかった。 先にも述べたように歴史として眺めた時に、拡散していく構造を東洋的視点自体が持っているようにも思うのだが、残念ながら何故そうなのかを明確に論ずるだけの引き出しを筆者は今のところ持ち合わせていない。 ここでは本講義が投げかける問いの深さと、改めて同じように光学的視点を持って描かれた西洋の画家たちの圧倒的強度、そこに至るヨーロッパの歴史的研鑽のプロセスの凄みを印象づけられることとなった。
そしてこの講義のまとめに森山大道「サン・ルゥへの手紙」で森山が写真の原点に戻ったときのエピソードとともに歴史を振り返る大切さを語り、ヴォルフガング・ティルマンスの過去のポートレイト作品「Adam」(1991)と近代の肖像画を撮った作品「William of Orange」(2007)を並べて展示したものや、過去の絵画を意識し布のシワを撮った「Neue Welt」(2012)など美術史とリンクしたアプローチを見せ、先間は「写真が過去のものになっている、と同時に新しい次元に入ったともいえる。」と言う。 この言葉は写真が現れた時に絵画が一気に写実表現から開放され自由になって行く様を表したホックニーのグラフ年表を思い起こさせる。 デジタルという要素が写真に新たに加わり、絵画の歴史と同じようなことが写真の世界でも起こっており、五十歳を少し過ぎた先間はその変わり目を今まさに体験しているという意味で切実である。 現在二十代前半の学生にとっては、たとえフィルムや印画紙を知っているとしてもリアリティーとしては圧倒的にデジタルが当たり前であり、その上での表現になっていくのであろう。 テクノロジーとアートの関係は他の全てのジャンル同様、変化を促す興味深いサブジェクトだが、先間に関して言えば現在の状況や切実さこそが表現の源でもあるとも思うので、そのことを自覚している彼の今後の作品がどのように変化していくのか非常に楽しみなところである。 当の本人はティルマンスのシミを例にして、これからの写真は印画紙の質がもっているもの−絵画でいうところのマチエールや物質性といったところにもっと注目していきたいということと、外に目を向けることの大切さ、その一環としてこの講義を行ったこと、今回聴きに来てくれた人たちへの感謝をあっさりと述べ、聴衆の暖かい拍手の中、講義は無事終了した。
今回のこの講義は先間の変態的ともいえる写真への愛に溢れる濃密な三時間となった。普段から足繁く美術館に通い作品の前に立ち続ける彼を知っているつもりではいたのだが、実際聴いてみると予想をはるかに超える“見る”という体験に裏打ちされた知識と、その見たもの全てを「写真」というひとことに集約してしまう思考の重力のようなものには本当に感服させられた。 しかも今回は全十五回の大学講義の一部をDEAD END用に編集されたものであることを考えると、もう頭がクラクラしてくる。 もし今回の講義を聴いてもっと先間ワールドに浸りたいと思った方は、岐阜のGALLERY CAPTIONで十五回全てを不定期に開催しているようなので、是非そちらに足を運ぶことをお勧めしたい。ともあれこの一人の写真家の眼差しを、今回聴きに来ていただいた方々と共有できたことはDEAD ENDの喜びであると同時に、そのひとりひとりの中に残った共有感覚こそが、冒頭で紹介した三十代後半の先間が求めた自由につながっていくのではないかと思う。

最後に、この「写真家が解体する美術史」を文章化するにあたり先間康博の視点を出来る限りたどりつつ、美術史のほんの一部とはいえ自分の言葉にひとつひとつ置き換えていく作業は正直荷が重いという思いもあったのですが、それ以上に時間の束を身体的に感じることが出来た刺激的な体験でした。 この得がたい負荷を与えてくれた先間さん、サポートしてくれた人達、当日聴きに来て頂いた皆様、そして今読んでくださった方々に感謝して終わりたいと思います。

続きは次回のDEAD ENDで。

井手日出志